文脈、というものを理解するために、あなたがマクドナルドに行ったとしよう。
店員のセリフは確か以下の二パターンだ。
1.「ご注文はお決まりですか?」
2.「店内でお召し上がりですか?」
しかし次の様に言われたら、あなたはどうするだろう。
「家光は三代将軍でよろしいでしょうか?」
あなたは間違い無く「え?」もしくは「は?」と聞き返すだろう。
「はい」と答えることが出来ないとしたら、それはあなたが、ある意味で「空気の読める人」であるという証拠に他ならない。
そもそも人が円滑にコミュニケート出来るのは、「相手が言うであろうこと」が事前にある程度分かっている場合のみだ。例えば、日記の冒頭に「文脈」とかなんとか書かれていたら、普通の人はわけわからんと思ってページを閉じる。コミュニケーションは断絶される。
何故わけわからんと思うかというと、通常日記に「文脈」とかなんとか書く人はあまりおらず、読む人もそんな内容を想定していない。想定外のものを想定内に入れることは意外に難しく、むしろ「わけわからん」などとつぶやいて、より外に押しやってしまいがちだからだ。
で、「相手が言うであろうこと」を事前に知るために必要なのが文脈だ。周囲の状況、相手の情報から相手の言いそうなことを予測する。それが文脈を読むということであり、空気を読むということでもある。
平常、人は九割くらい文脈で会話しているので、発している言葉の九割くらいは意味を成していない。普段の会話を録音してみればそれがわかる。らしい。
では、各自それぞれが文脈を読んで円滑にコミュニケートしていて、それでハッピーアンドラッキーになるっているかというと、そうでもない。
何しろみんなが円滑にコミュニケートすることに気を取られるあまり、発している言葉がまるで意味を成さず、すかすかの、空虚の、ほとんどパンクロックと化しているようなのだ。
第一に国の長が友愛、友愛と念仏のように唱えて国家を混乱の極みに陥れている。
それを見た国民は、「首相が変われば大丈夫」などとうそぶき、あまつさえ「がんばれニッポン」などとまるで踊り念仏の様相を呈している。
そんな状況にも関わらず、「英語教育」「偏差値」「愛されゆるふわめちゃモテ」「新卒採用」「スキルアップ」「雇用促進」「ロハス」「婚活」「弁当男子」「生涯学習」「老害」等々、空虚な言葉達が飛びかっている。
そして、そういった言葉を使わない人間の言うことには端から耳を傾けない。じっくり耳を傾けなければ、聞き取れない言葉もあるというのに。
こんな世の中は正しいんだろうか。恐らく正しいんだろう。多勢はいつでも正しい。それが「民主主義」とかいうものらしいから。
おそらく一番間違っているのは、誰のためでもないこんな日記を書いている僕なのだろう。訳のわからない戯言を繰る前に「バイト」でも探すのが理にかなっているのかもしれない。