rh日和(仮)

モノ、ゲーム、PCなどについてのブログ。

 カミュのペストを読んでいる。

 追い詰められた人間、を書くのは誰にでもできる。山田悠介でも出来る。というか、小説の登場人物はそのストーリー中で九分九厘追い詰められる。それは神話の時代からの「お約束」であるらしい。

 じゃあカミュがすごいのはなぜか。人間描写が上手いからか。

 しかし、ねぇ。人間の行動や内面を超絶技巧で描いたって、きょうび流行らんのよ。だったらむしろ山田悠介でも読んで手軽にスリルを消費したほうが時間がかからんくてええんよ。揶揄でも何でもなく本当にそう思うよ。

 
 じゃあカミュの何がすごいのか、ってことを僕がここで数行で書けるんなら文学研究なんか必要なくなるわけだけれど、ひとつ挙げるとしたらその執拗さだと思うの。まぁ最近僕が個人的に「執拗さ」こだわってるってのもあるんだけどね。

 カミュは「シーシュポスの神話」で、「結局大事なのは生きるか死ぬかという問題だ」というようなことを書いている。結局のところカミュが徹頭徹尾こだわっていたのは「生きるか死ぬか」という問題だったんじゃないかと思う。

 で、少なくともカミュにとっては、生は不条理に満ちたものだった。不条理とは例えば、この世に神様のような普遍的かつ中立的な価値や見識が存在しないことに対する感情、とでも言えばいいのか、まぁそんなようなものだ。

 相撲取りが賭博をやっていたために世間からさんざん叱られる。なぜか?といえばまぁ違法だからで、違法賭博は暴力団の資金になってヤク中が増えて、みたいな説明がなされる。でもよくよく考えてみれば日本国家と暴力団、どっちが本当の悪であるかを確定させることは現代においてもはや不可能だ。役人だって使い込みをするし、使い込んだ金でクスリを買ってるかもしれない。そもそもいずれも究極的には単なる人間の集まりなわけで、良い人間もいれば悪い人間もいるし、もっと言えば同じ人間でもいいことをしたり悪いことをしたりしているのだ。

 というようなことを考え始めればキリがないので普通の人は適当なところでやめる。でもそれをやめなかったのがカミュなんじゃないかとそう思うし、その執拗さが余す所なく「生と死」「善と悪」に向けられているから面白い。もちろんあらゆる文学の名作にも同じことが言えると思うけれど。