思考だだ漏れノートG

モノ、ゲーム、PCなどについてのブログ。

演じる、ということについて考えている。

 僕なんかが子供だった頃は、なんとなく「個性」だとか「自分らしさ」だとか「オリジナリティ」みたいなものが大事、みたいな、そんな感じの風潮があったような気がしないでもない。

 なぜこんなに言い方に自信が無いかといえば、誰か特定の個人がそんなようなことを触れ回っていたわけではなく、今現在から過去を振り返ってみると、かつてそんな風潮があったらしいと言われているらしいということを、授業やテレビや本で見聞きしたに過ぎないからである。

 それはいいとして、個性というのは、ちょっと考えればわかるが、基本的には放っておいても勝手ににじみ出てくるようなその人の特徴を指してを個性と呼ぶのであって、それ自体あってもなくても構わないものである。

 それをば自ら追い求めてこれを得ようとするなんて、本末転倒というものではないか?なぁんて思っちゃったりするのは僕の個性?

 そもそも個性という言葉がどんな文脈で使われたかを考えてみると、才能、という言葉とほぼ同じなんじゃないかと思う。

 人にはそれぞれの才能=個性がある。ウチの子供にも何らかの個性がきっとあるはずで、個性を涵養・促進せしめれば、もってその才能が開花、更にその才能を活かして一定の社会的地位を占め、莫大な資産を形成、ゆくゆくは老後も安泰、みたいな思惑があったんじゃあないか。誰に?俺に?

 現実にそんなことがあり得るかというと、まぁ肉体的な才能・条件というものは確かに存在するが、人間の社会的能力は後天的学習に依る部分が大きい。個性のようにあやふやなものに頼るより、家事でも作法でも何でもいいから学ぶべきなんじゃあないかと思ったりもする。

 まぁ何事も例外があるわけで、知らなかったり素人だったりすることによって逆に物事がうまくいく、なんてなことも無いとは言いきれない。人間万事塞翁が馬、とはよく言ったものである。

 というと、結局何も言ってないのと同じになりそうだが、まぁ、つまり、バカみたいに個性個性言っててもなんにもならないんじゃないじゃあないの?なんて思うわけで。

 かく言う僕は、こんなところで訳のわからない文章を書いて何になるの?おじちゃんバカなの?とおっしゃる方もいらっしゃるかもしらんが、はっきし言って耳が痛い。仰せの通り。

 しかし、ここで話はタイトルに戻るが、文章を書くという行為はそこに一つの人格を立ち上げる作業なんじゃないかと思う。で、人格を作る=役割を演じる、ということは、社会的能力を得るために有効な手段なんじゃないかと思う。

 人は生まれた時から、例えば総理大臣として生まれ育つことが決まっているわけではない。当たり前の話かもしれないが、総理大臣に向いているかどうかは、総理になってみなければわからない。もちろん、政治家に必要な様々な資質というものは存在するが、総理にとって本当に肝要な能力というものは、実際になってみなければ得られないものなのではないかと思う。もちろん想像だけど。

 だからつまりメンドーなので結論を急ぐと、自分を一旦捨ててその役割を演じることで得られる能力って結構大事なんじゃないの?まぁ自分を殺しすぎない程度に。

 何かを演じるよりもありのままの自分でいたい、とおっしゃる方もいるかもしらんが、大丈夫、あなたが何かを演じているときも、ありのままの自分はそこに存在しているハズだ。