思考だだ漏れノートG

モノ、ゲーム、PCなどについてのブログ。

インプットよりアウトプットやで!!

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池谷裕二さんの講演を聴く (内田樹の研究室)
むかしのブクマを掘り起こしてみた。 

脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。
平たく言えば、「いくら詰め込んでも無意味」であり、「使ったもの勝ち」ということである。
書斎にこもって万巻の書を読んでいるが一言も発しない人と、ろくに本を読まないけれど、なけなしの知識を使い回してうるさくしゃべり回っている人では、後者の方が脳のパフォーマンスは高いということである(生臭い比喩であるが)。
パフォーマンスというのは、端的に「知っている知識を使える」ということである。
出力しない人間は、「知っている知識を使えない」。「使えない」なら、実践的には「ない」のと同じである。

全くもってこの知見は正しい。知識や技能を得るために重要なのは、訓練よりも実践だ。より厳密に言えば、訓練によって得た知識や技能を、実践で用いることで自分のものにする、というプロセスが大事なのだ。 
例えば、そう。格闘ゲーム。確かにトレーニングモードの練習量は多ければ多い程良いし、昨今の格ゲーは知識の絶対量がモノを言う。 
しかし、そうして得たテクニックと知識は、実際の対戦で何度も使わなければ(実戦投入しなければ)、決して自分のものにはならない。何百回同じコンボを練習しても、実践で成功しなければ意味が無いのだ。
ブレイブルーのツバキで言えば、いつまでも5BB→2Bの崩しをやっていても上手くはならない。
とにかくどんな状況でもいいから、6Aなら6Aの中段を振ってみる。
初めは上手く崩せないし、その後のコンボに繋げないかもしれないが、何度も振っていればそのうちコツが掴めるはずだ。
もちろん自戒の意味も込めている。何でもいいから新しいことをやろうとしなければ、対戦する意味が無い。
 
読書についても同じことだ。

むかし、学生院生たちがよく読書会というのをやっていた。
彼らはちょっとずつ頁を進めながら、これはいったいどういう意味なのであろうかと話し合い、これはどういう学説史の中に位置づけられるのであろうか、というようなことを論じ合っていた。
あのさ、読むのはいいけれど、使ってみないと、どうしてその人がそんな本を書いたのか、その意味はいつまでもわからないよ、と私は彼らに申し上げたことがある。
自転車に乗るのといっしょである。
みんなで集まって、何日も何週間も自転車の部品をぴかぴかに磨いたり、設計図を眺めたり、「自転車の歴史」という本を読んで、自転車がこのような形態をとるに至った歴史的進化のプロセスを勉強したりしても、自転車が何をするためのものかはわからない。
それよりも「乗る」方が先でしょ。
まず飛び乗って、走ってみる。
そのうちにハンドルというのがどういうものか、チェーンというのがどういうものか、ブレーキというのがどういうものかについての理解がすりむいた膝の傷の数と一緒に増えてゆく。
どういう自転車がより高機能であるのか、どういうかたちのもの自分の目的に似つかわしいかがだんだんわかってくる。
わかってきたら、それを「自作」すればいい。
学問というのは、そういう生成的なプロセスである。

僕も前々から本を読んでいて、果たして自分のものになっているのだろうかと考えることが多かった。
たくさん本を読むのは悪いことではない。
しかし重要なのは、その本を読んだ僕が何を出力するか、ではないだろうか。
別に、「読んだら相撲が取りたくなりました」でも構わない。ぜひ相撲を取ってみるべきだ。
そんな風に考えてブログを書いたりしているんだがどうだろう。何かになっているだろうか。まぁ当面は出力することそのものを重視していけばいいか。