rh日和(仮)

モノ、ゲーム、PCなどについてのブログ。

ツイッターについてあれこれと。

 ツイッター。とても面白いツールだ。短文を投稿するという単なるフォーマットを提供しているだけなのに、これほどの流行を見せている。
なぜツイッターが流行るのか。まぁそういう問題はもっと頭のいい先生方に考えていただければそれでいいと思う。
僕が知りたいのはたいてい僕自身のことだ。僕は僕のことにしか興味のない悲しい男だ。悲しく笑って西へ旅立とう。さらば。
などと旅立ったってどうせ行くあてはないのだから旅立つのをやめる。
僕自身の問題。それは、ツイッターなら手軽に書けるのに、ブログはなかなか書けないという問題。たぶん多くのブロガーが直面している問題だ。
まぁ別に、ブログを書けないんだったら書かなくてもいい。別に仕事でやっているわけではないんだし。それに、ツイッターっていう便利なツールがあるんだから、じゃんじゃん利用すればいい。なにか問題でもあるの?
たしかに問題はない。少なくともないように見える。でもね、やっぱりこう、なんて言うか、ツールの変化に対して、なんの考えもなくホイホイついていっちゃっていいの?と僕なんか思っちゃう。ウホッ!じゃなくて。
便利なツールが出てくるのは結構なことだけど、やっぱりツールを使う自分というものの在り方についてはなるべく自覚的でありたい、と僕なんか思っちゃうんだなぁ。うん。
僕はブログを書くのを結構楽しむタイプで、それは文章を書くのが楽しいからだと思う。でも、ツイッターはそれとは別に、とても楽に書くことができる。「楽しい」と「楽」は、似ているけど結構違う。
なぜツイッターが楽なのか。それは、文章で言えば一行づつを、書いて投稿できるからだと思う。
一つのまとまった文章を書くのは結構大変だ。なぜなら文章は頭から終わりまでに整合性というものがなければならないからだ。「整った文章」という言葉があるように、文章というものは整合性が取れているほど良い文章であるとされる。もちろん、あえて文章を「乱して」書く場合もあるが、それはたいてい何らかの意図、あるいは芸術的な効果を狙ってやっているのではないかと思う。多分ね。
しかしツイッターはそうではない。一つの投稿は一文だ。頭も終わりもない。整合性なんか取れていなくてもいい。
これは、人間がモノを考える本来のやりかたに近いのではないかと思う。だいたい人間が一度に考えることは、ワンセンテンスごとであると言っていいだろう。「あ、洗濯物取り込まなきゃな」とか「晩ご飯はカレーにしよう」とか。あまり「今日の晩ご飯はカレーにしたいけど福神漬が無いから買いに行かなきゃいけないけど面倒くさいからソーキそばにしようと思ったけどお昼も麺類だったから親子丼にしよう」というような長い意味内容のことを一度に思いつくことはないだろう。あくまで一般的な話。
ツイッターは、考えてから投稿するまでの距離が短い。だから楽に使える。というのはもうすでに指摘されていることだ。
ツイッター、便利だね。便利になってよかったね。あはははは、うふふ、もしくはおほほほん。
しかしそんなふうに馬鹿笑いしていてもいいのだろうか。ツールというものは、時に人のありようを変えてしまう程の力を持っている。ツイッターの流行は人間にどのような影響を与えるのだろうか。
一つ指摘されていることは、人間の思考がツイッター型に短くきれぎれなものになってしまうのではないかという危惧である。ツイッターは人間を馬鹿にする、米英のこしらえた侵略兵器であるという陰謀論さえあるとかないとか。なんと恐ろしい。
しかしちょっと考えればわかることだが、我々はツイッター以前からものごとをそんなに深く考えていただろうか。むしろそーゆーのはごく一部の物好きのための道楽のようなものだったのではないだろうか。
もっと言えば、短いセンテンスのやり取りという文化は、携帯の電子メールやポケベルの時代からあったものだ。けっしてツイッターの専売特許ではないのである。
ツイッターの新しい点、斬新ポイントは、電子メール的な短文通信と、ブログ的な今でいうソーシャルメディア的なものをごっさにした、ごっさにしたというのは僕の造語だが、ミクスチュアしたという点ではないだろうか。
かつては一対一の相互的なやりとりだった電子メールの短いセンテンスが、現在ではネットワークというごちゃごちゃのごたまぜの中に放り込まれる。これがツイッターというものの特別な点ではないか。
というような議論も多分すでに誰かがやっているだろう。ありきたりのことしか言えねぇなぁ僕。
それはいいとして、上のような議論から導きだすことができるのは、我々個人の知のみではなく、我々全体の「集合知」のようなものが変化するという可能性である。お、ちょっと斬新かもしれないぞ僕。
かつてインターネットが出始めた時代は、「我々の知は、メディアからのトップダウン的なものから、個対個の双方向的なものに変わるかもしれない」というような期待があったような気がしないでもない。
しかし、なんといってもインターネットは敷居が高かった。ブログが隆盛を極めた頃ですらまだまだだった。ホームページは仮想空間のようなものだったが、人一人が仮想空間を創り上げるのは結構大変な作業だ。ブログがそのモデルとしていたものは「日記」だったが、日記ですら出来る人と出来ない人がいた。
そこで登場したのがツイッターである。ツイッターに必要なものは「思いつき」であり「つぶやき」である。世の中に思いついたりつぶやいたりしない人はいないだろう。ツイッターによって、インターネットはより多くの人に対して開かれたものになった。うーん、まだありきたりかなぁ。
ツイッターによって我々の知は、より双方向的なものになっていくのだろうか。たしかに今のところはありえそうな気がする。メディアや政治の凋落がその兆しであるかのようにも見える。
しかし僕なんか結構保守的な人間なので、そんなに変わっちゃって大丈夫?なんか怖くない?という気もする。それに、結局人間が人間である以上根本的な部分は変わらないだろうという素朴な考え方をしたりもする。
とにかくツイッターは今後どんどん流行っていくだろう。mixiは今後ヘタをこかなければ低空飛行を続けるだろうね。Facebookは日本では流行らない。グーグルの新しいサービスはちょっと期待だなぁ。なんて無責任なことを考えたりしている。