MOTHERの実況プレイ動画を某ニコニコで見たりしている昨今。大丈夫か?オレ。いろいろと。
MOTHERのストーリーは、ものすごくざっくり言えば、母の愛が地球を救う、というものである。ベタである。でも、ベタだからこそ、心を打ったりもする。
今でもうちにMOTHERのカセットがある。でもプレイしたことはない。当時はまだRPGをプレイできるような年齢ではなかったし。ちなみにMOTHER2はVCで最近クリアした。
MOTHERについてよく覚えていることといえば、オープニングの音楽がなんとなく怖かったこと。あと、母がプレイしていたような記憶もおぼろげにある。MOTHERをプレイしたマザーたちは、日本中に、いや、世界中に、どれくらいいたのだろう。
プレイ動画を見ながらそんな記憶をたどりつつ、愛ってなんだろう、というようなことを考えた。ベタすぎるけど考えた。
「愛」というのは、多分「愛着」とそれほど違わないのかもしれない。母の愛というのは、己が手を差し伸べなければ死んでしまうようなひ弱な生き物を保護し続けるうちに、自然と育まれるものなのだろう。だからマリアは自分の子どもでないギーグを、愛を持って育てることができた。
愛は、その発生地点においては、わざわざ「母の偉大な愛」などと大げさな形容詞をつけるようなものではなく、毎日植木に水をやったり、靴を磨いたりするような気持ちの、延長上にある心の動きなのではないか。なんて軽々しいことを言ったら、全国のマザーたちに怒られるかもしれないけど。
母の愛が、地球を救うという、ベタな物語に心を動かされるのはなぜだろう。現実の愛は、なにかを救ったり助けたりするだけでなく、むしろ壊したりダメにしてしまうことだってあるというのに。
愛が、その発生地点である「愛着」に近ければ、なにかを壊すようなことはあまりないと思う。自分が慣れ親しんだものを大切にしよう、というシンプルな気持ちが害を及ぼすということは考えにくい。毎日使っている茶碗を自ら叩き壊して喜ぶような人は、あまりいないだろう。
でも、ひとたび愛するものを「自分のものにしよう」と思い始めると、その感情は、途端に周囲に害を撒き散らし始めることになる。MOTHERのラスボスみたいに。
なにかを支配しようとする悪者が、なにかを守ろうとする善の者に打ち倒される、という物語が広く受け入れられるのは、そのような愛の性質に関係している、ような気がする。