どうせ休みだから今日も日記を書く。
人が言葉を使うのはなぜだろうか。言葉は人を作り、人を変える。言葉即ち人であるといっても過言ではない。
言葉をやりとりするのが人間であるなら、正しい言葉を使える人間はより正しい人間であると僕は思う。
しかし、社会には正しくない言葉が氾濫している。情報化社会が発達し、情報の絶対量が増えるにつれて悪意や虚偽の言葉が増えている。政治家は相変わらず空語・空論を弄しているし、メディアは大衆の欲望を刺激するだけの装置と化しており、そのメディアを嘘で金儲けする輩が毎日賑わしている。いったい正しい言葉はどこにあるのか。正しい言葉を求める僕の精神は挫折するより他ないのだろうか。
そんな三文評論家みたいなことを考えていたら腹が減ったので昼飯を食べに近所のラーメン屋に行く事にした。腹が減っては戦は出来ぬ、なんつって。
最近は個人的な研鑽努力によって独自の味の達成をなしえたと思っている店主がいるような店が多い、と町田康が言っていて、上手いこと言うなぁと思ったが物だが、その店も果たして個人的な研鑽努力によって独自の味の達成をなしえたと思っている店主がいるような店であった。
まぁ味はまだ良いとしても、なんと言ってももやしが多かった。もやし。食っても食ってもなくならないもやし。もやし地獄。五月雨のもやし地獄。
いったい店主は何を考えているのだろうか。しかしその顔からは、ラーメンとひたむきに向き合ってますよ感しか感じられず、もやし的要素、もやし的ニュアンスの欠片も無かった。
僕は、ラーメン屋じゃなくてもやし屋を名乗れよ。そっちのが正しいだろ、言葉として。と思ったがそんなそぶりも見せずそそくさと店を出た。
いったい言葉とは何のためにあるのだろう。