僕はただ単にさぼりたいだけなのか?と考えると、イエスと答えざるを得ない。
僕は聖人君子ではない。それどころか、他人より劣った部分をたくさん持っている。
人間の持つ特性を総合して優劣をつけることは出来ない、と僕は信じている。だとしても、僕が超人的に優れた何かを持っているとは到底思えないし、一定条件下における何らかの強みでさえ、持っているかどうかは怪しい。
そんな僕であるから、人間が持つ普遍的な欲望に流されてしまうことも多々ある。遊びたい、楽をしたい、人より良い立場に立ちたい、と、無意識に思考の何割かを費やして考えている。
だからぼんやりしているとつい苦しいことを避けて楽なことを選んでしまう。怠惰というやつである。
とはいうものの、僕のありよう全体を怠惰で片付けてしまってもよいのだろうか。
言っちゃなんだが僕は中学時代、相当苦しい野球部の練習を耐えてきた。しかも自分から進んで。
現に今の僕だって、特に何もせず、お金も使わず、歌を歌ったり本を読んだり文章を書く真似事をしたりしているが、これだって特に楽ばかりではない。人並みに真っ当なことをやったほうが心の平穏が得られるはずである。
なぜ僕は今の生活に甘んじているのだろう?
と考えてみて、ふと思い浮かんだのは、某センセイの理論。
「学び」というのは、「その有用性や意味がわからないもの」(私たちの世界はそのようなもので埋め尽くされている)の中から、「私にとっていずれ死活的に有用で有意なものになることが予感せらるるもの」を過たず選択する能力なしには起動しない。
「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
僕が人並みのことをやらないのは、人並みのことをやって得られるものが大体分かりきっているからなのかもしれない。それは結構恐ろしいことかもしれない。