rh日和(仮)

モノ、ゲーム、PCなどについてのブログ。

つ、釣られたクマー!!

釣り――それは”ネット住民”たちによる終わり無き闘争である。 ソレナンテ・エ・ロゲ(Sorenant et Roage, Sorénanté-Hait Roguet, 1599年 - 1669年?)

そろそろネット住民の反パチンコ論についてひとこと言っておくか - よそ行きの妄想
昨日このエントリを携帯で読んでから気になって気になって仕方なくなってしまった。
そう。いわゆる「釣られた」というやつである。クヤシイデモビクンビクン。
釣られたということはすなわち「負け」である。よってこれから書く文章は全て負け犬の遠吠えに等しい。


では、一体何が気になるのか?僕はパチンコ屋がどーとかいう話にあまり興味はない。ゲーセンでえんえんコインゲームをやるよりは楽しそうだなぁくらいの認識だ。
僕が気になるのは、このエントリから、なにかこう、強迫的なものを感じるということだ。
具体的に言えば、なんか言葉遣いがヘン、というと語弊がある、ヘンなのは僕かもしれない。個人的に違和感があると言った方が正確だろうか。その違和感の正体をどーしても突きとめたいのでこんなエントリを書いている。
あらかじめハッキリ断っておかなければいけないが、僕には批判的な意図は一切無い。
そして、他人の文章の言葉遣い、言葉尻を捉えてあげつらうような行為は、場合によっては相手に多大な不快を与えることになる。
よって、苦情が来たり怒られたりしたらソッコーで消します。光の速さで。
出来ればこのエントリは愚劣なネット住民の蒙昧な戯れ言として、笑ってスルーしていただきたい。そう願う。


では本題。
僕がこのエントリにつけたブクマコメント。

rhbiyori こういう押し付けがましい文体ってスポーツ新聞とかに多いよね。

押し付けがましい、というとやっぱり批判的なニュアンスがある。僕が言いたいのは「相手より優位に立ちたいが為に文章がごてごてしている」ように感じるということ。あんまり変わってない?



まず、タイトルからして”ひとこと言っておくか”である。”言っておく”という宣告に”か”というつぶやき感をプラスしている。「一言物申す」というのに近い。

最初の段落。

はてなでは定期的にパチンコに関する話題が注目を集め、大挙して押し寄せたブックマーカーたちが、口々に社会悪たるパチンコ業界に対する怨嗟の声を漏らすというのが恒例行事になっている感がある。

なんか怖い。国会議事堂前にヘルメットとゲバ棒の学生集団が集合しているような印象を受ける。ソーシャルブックマークというわりと地味でおとなしい行為をここまで物々しく書けるというのはなかなかスゴイと思う。
次の段落で気になるのは”まさに圧巻なわけである。”という一文。「まさに圧巻である。」ではない。「まさに圧巻。」でもない。”まさに圧巻なわけである。”。どんな「わけ」なのだろう。
次の段落。

常識的に考えて、パチンコをする人にも何らかしらの動機があるに決まっている。彼らはパチンコによって何らかの欲求なり衝動なりが満たされると思うから、パチンコをするのだ。まったくもって当たり前の話過ぎて申し訳なさすら覚えるが、パチンコをする人とパチンコ屋の関係は、単純に需要と供給の関係なのであって、小作農と封建領主のような関係ではない。パチンコをする人のそもそものところにある動機も考えず、ただひたすらパッと見の印象で搾取だ陰謀だと噴き上がる様は、見るも無惨である。

”まったくもって当たり前の話過ぎて申し訳なさすら覚えるが、”とある。ちょっと表現が遠回り過ぎる。当たり前の話をして申し訳なくなるのはわりと普通のことなので、”申し訳なさすら”はちょっと言い過ぎだ。
「当たり前の話をして申し訳ないが」か、「当たり前の話過ぎて情けなさすら覚えるが」あたりが妥当だと思う。
そのあとの”見るも無惨である。”もすごく気になるが、当人が無惨に感じたんだから余人が口を挟む余地はない。ちなみに、新聞等では「無残」で統一しているらしいが、これは僕も知らなかった。
次。

少し前*1、それなりの頻度でパチンコ屋に通っていた経験がある。回数を重ねるにつれ、徐々に常連客のような方々が話しかけてくださるようになった。私は生粋の人見知りなので交友はご遠慮させていただいたが、私の友人などは割と仲良くしていたようだった。

言葉遣いにはなんら問題はない。しかし、見ず知らずのネットユーザーには”見るも無惨”等と言いながら、パチンコ屋の常連客には丁寧な敬語を用いている。「お前らみたいなネット上の有象無象のヤツらと、パチンコ店にいらっしゃる方々は、もう、ぜーんぜん、格が違うのだ!」といったような意図が感じられる。まぁ、別にいいんだけど。

次。

曰く、常連客にはいくつかの派閥があり、派閥内にはリーダー的な人もいるのだそうだ。そして、同じ派閥の中では、その日勝った人が派閥の仲間にコーヒーを振る舞うなど、頻繁にコミュニケーションの機会が持たれ、今日は誰が来ていて何回当たったとか、来てない人はどこそこに行っているとか、そういう話をのべつ幕なしにしているのだそうだ。要するに学校の教室と同じである。

”のべつ幕なしに”。まぁ間違ってはいないんだけど、”のべつ幕なしに”というと、なんかもうしゃべりたくてしゃべりたくて仕方なくて相手の反応も省みずにやたらめったら言い募ってる、みたいな印象がある。個人の感じ方の違いかもしれないけれど。

パチンコをすると、脳内でエンドルフィンという物質が分泌され、これが中毒症状の要因になるのだという。こうした科学的な事実をもってしてパチンコを薬物に喩える向きもあろうが、エンドルフィンは基本的には自分が他人から良く思われていると感じた時に多く分泌されるものであり、このことはパチンコがコミュニティの軸にあたるものだということを裏付ける。つまり、パチンコで大当たりを引くというのは、小学校の運動会においてかけっこで一番になり、クラスの人気者になることと一緒だということだ。

特定の脳内物質と「他者からの受容」のような社会的要因が一対一で結びつけられている、というような話を僕はあまり信用しない。たぶん茂木健一郎でもそんなことは言わないだろう。

せっかくなので少しは褒めておきたい。”パチンコは暴利か”以下の、パチンコは還元率が高いという話はおそらく本当。以前「爆笑問題のニッポンの教養」で大学の教授が同じ話をしていた。まぁそれさえ「メディアの印象操作だ!」という人もいるだろうけど。でも「競馬で一千万負けた」という人はけっこういそうだけど、「パチンコで一千万負けた」という人がいたら、よっぽど運が悪いなぁと思うだろう。単なる印象だけど。

次の見出し、”パチンコ叩きの性根”。”性根”。そもそも”性根”という言葉があまりいい文脈では用いられない。Googleで「性根が」で調べると関連語として「性根が腐る」と表示される。

”ネット住民は極端なのだ”と言うが、”口角泡を飛ばす”、”我を忘れて牙をむき”等々、やたら極端な表現を好んでいるのは一体どなただろう。

最後の一文は”なにごとも真ん中くらいが一番いいわけである。”。また”わけである”が出てきた。恐らく語尾に”わけである”をつけなければならない重大な理由があるのだろう。キャラ作りとか。


結局、僕が感じた違和感はなんだったんだろうか。多分、「わざわざ遠回りな言い回しを使ってまで攻撃的な表現を使っていること」ではないかと思う。「それが何か?」と言われたら何も言い返せないのだけれど。