娯楽は楽しい。娯も楽も、どちらも「たのしみ」という意味の漢字だ。
でも間違ってはいけないのは、娯楽そのものの中に「たのしみ」の源泉のようなものが存在して、その源泉から「たのしみ」が湧き出してくる、というような娯楽観は間違いである、ということだ。娯楽の原理は決してそのようなものではない、とあえて断言したい。
ではなぜ娯楽はたのしいのか。それは娯楽が、平凡な日常や苦しい現実から逃れようとする運動・力動であるからにほかならない。簡単に言えば娯楽とは現実逃避なのだ。
と言うと、なにを当たり前の事を言っているのだこのコンコンチキがっ。とお怒りになられる方もいらっしゃるかもしれないが、まぁ待って欲しい。
娯楽とは現実逃避である。この命題から導き出される結論は、娯楽そのものは大して面白くなくても構わないということだ。むしろより無意味な方がいい。娯楽とはそういうものだ。みなさんにも覚えがあるだろう。
しかし人はその事実をすぐ忘れる。娯楽で現実逃避を成し遂げた人は、「楽しいなぁ」と思う。と同時に「もっと楽しくなりたいなぁ」と思う。そして更にどんどん娯楽をやる。
しかし一度現実逃避を成し遂げた時点で、娯楽の楽しみは損なわれており、もはや娯楽は苦しみでしかなくなる。にもかかわらず、いったん娯楽による楽しみを覚えた人は、なかなか娯楽を捨てられない。「苦しいなぁ」と思いながらも娯楽を続ける。
やがて「こんなに苦しいのは娯楽が足りないせいではないか」と思い始め、さらに娯楽を加速させる。
かくして人は、っていうか僕は過去の娯楽による成功体験にすがり、苦しみのスパイラルにはまっていく。
苦しみの原因は己の欲望だ、と偉い人は言ったが、娯楽においてもそれは当てはまるのではないか、と思ったり思わなかったりした一日。娯楽もほどほどのところでやめた方がいいのかもしれない。