対戦ゲームをプレイするなら、誰だって強くなりたい。でも具体的に「強さ」ってなんなんだろう?
そんな、バガボンドの武蔵のような疑問に、誰もが直面せざるを得ない。たとえ自分のような弱小プレイヤーであっても。
- 作者: 井上雄彦,吉川英治
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/07/23
- メディア: コミック
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強さ、という概念はずいぶん曖昧なものだ。
普通は「強い方が勝つ」と考えがちだが、実際は勝った人が後付けで強いと言われるだけであって、本当は強さなんて概念は存在しないのかもしれない。
そんな不確かなものを追いかけることが可能なのか。
「強さ」に似た概念に「上手さ」があって、こっちの方が多少は分かりやすい。
例えば、練習して昨日は出来なかったコンボを今日は実戦で決められるようになったら、それは確実に「上手くなった」と言っていいだろう。
でも「上手さ=強さ」と考えていいのだろうか。
例えばそのコンボを覚えた事によって、意識の数パーセントが「そのコンボを決めること」に占有され、そのせいで対戦に負けてしまうことがあるかもしれない。ずいぶん強引な例だけど。
いや、それでもなお、やれないことをやれるようになる方がいいのかもしれない。
1日1つずつでもいいからやれることを増やしていくべきだ、と、かのウメハラも言っていたし。
格ゲーには、「やれないよりはやれた方がいい」という要素が確実に存在している。分かりやすいのが確定反撃とか。
そういう部分を詰めていくのはわかりやすいし大事だ。
でももっとずっと上手い上級者は、自分が一生かかっても出来ないような難しいことを、実戦で決めている、ように見える。しかもひとつではなく、いろいろなことを。
そういうのを見ると、自分のやっていることの不確かさに不安になる。
そんな自分は絶対に上手くなれないし強くもなれないんじゃないかと思ってしまう。
考え方の悪い癖。
問題を整理してみよう。
ゲームをどんどんやって、やればやるほど強くなって上手くなって、そういう状態が一番の理想だ。でも現実はそんなに甘くない。
ただやっているだけでは強くなれない。強くなるための方法を見つけることが必要だ。そしてその方法は、自分が強くなる度にどんどん変化する。進むほど道が増えていく樹形図みたいに。
その途方もなさに、途方に暮れている。しかも自分に限界があることは、まず間違いなく確定している。
それでもやり続ける意味はなんなのか。と、そういうことを僕は考えている。
楽しいから、でいいじゃん、と僕の中にいる僕のうちの一人は言う。確かにそうなのかもしれない。楽しんで取り組むことは、上達への近道だ。
でも、楽しいからやる、ということは、楽しくなったらもうオシマイ、ということでもある。そんなちゃらんぽらんな感じでいいのか。強くなれるのか。
「強さ」という概念は、人をストイックな方向に導こうとする。それ自体が誤りなのかもしれない。
あるいはストイックな方向に行って、修羅みたいなものになってみることも、人生経験というやつなのかもしれない。自分はそんな経験は無いと思うけど。
「強さ」は、それを求め続けた人の手に入る。でも放っておくとすぐに逃げてしまい、二度と戻ってこないかもしれない。
でもだからこそ、ひたすらに強さを求める人の背中に、そうでない僕らは憧れ続けるのかもしれない。
「強さ」を追い求めることは有意義なのか、それとも無駄なのか。つまりそういう問題に自分は直面しているのかもしれない。
その問題に自ら答えを出すならば、そもそもなにが有意義でなにが無駄なのかを、人間の限られた力で判別することは極めて難しく、結局はだいたいのさじ加減で決めるしかないのだ、という感じになる。
要するに、よくわかんないからやりたいようにやってオッケー、ということ。
強さを求めてもいいし、強さを求めなくてもいい、ということ。
そりゃあ自由なのが一番いい。
でも、強くなる人が義務になっている人の場合、そうもいかないのだろう。幸い自分はそうじゃないけど。
義務感は、人を強くするのだろうか。
そりゃ場合によるだろう。きっと。
自ら義務を引き受ければ、強くなれるんだろうか。自分にはそういう覚悟はどうも無さそうだけど。
今日の記事は過剰に思弁的になってしまった。でももったいないから投稿しとこう。