rh日和(仮)

モノ、ゲーム、PCなどについてのブログ。

ゲームのストーリーにおける「暴力」と「復讐」などについてふんわり考える

【PS4】ゴッド・オブ・ウォー PlayStation Hits【CEROレーティング「Z」】


 フリープレイの『ゴッド・オブ・ウォー(PS4)』を少し触った。

 序盤に主人公のクレイトスが謎の男の襲撃を受けるシーンがある。結構バイオレンス。多分R15くらい。

 あまりに暴力的なのでそこでプレイをやめてしまった。

 バイオレンスを見たくないからではない。クレイトスに対して「徹底的にそいつを打ちのめせ」と思っている自分に気づいたからだ。

 なんだか自分の中の暴力性を無理やり引き出されているように感じたから。



 別に「ゲームが暴力性を助長する」という議論をしたいわけじゃない。

 あらゆる表現は何かを助長するものであって、それを止めるにはあらゆる表現を止めるしかなく、それは非現実的。どこまでが社会的に受け入れられるかという程度問題でしかないと思う。



 単純にゴッド・オブ・ウォーが自分向けでないと感じただけの話。

 同じように『タイタンフォール2』をプレイしたときも、序盤で教官が敵にやられてその遺志を継ぐことがストーリーの「引き」になっていたが、特にプレイし続けるモチベには繋がらず、むしろあざといなと感じてやめてしまった。最初のレースが一番面白かった。

 ちょっと違う例だが『ニーアオートマタ』の体験版をプレイした時、9Sが敵にやられて2Bが邦画のように叫ぶシーンで同じように冷めてしまったことがある。



 映画や小説と同じように、ゲームのシナリオも「引き」を作る必要がある。

 多くのゲームは敵と戦うこと、すなわち広い意味での暴力を扱っている以上、最も手っ取り早く引きを作る手段が「復讐」や「身内を守ること」をストーリーに盛り込み、プレイヤーの共感を得ることなのだろう。

 それは現実において人間が他の人間に暴力を用いらせるために有効な手段でもある。



 暴力を主題として扱っていながら、「人を暴力へと駆り立てるもの」に対して自覚的だったと感じる作品が『メタルギアソリッド』シリーズだ。

 第1作において主人公のソリッドスネークは、過去の上官に依頼される形で渋々戦場に舞い戻る。余談だがこのくだり、もし「上司からメタルギアの新作を作るように言われて渋々作り始めた小島監督の心情とシンクロしている」とかだったらちょpっと面白い。根拠は無いけど。

 2以降の作品は敵兵を気絶させるのみでクリアが可能。一種の縛りプレイとして敵を倒さずクリア可能なゲームは他にたくさんあるだろうが、不殺プレイを想定して作られたゲームはちょっと珍しかったのではないかと思う。

 敵を倒した数に応じてストーリーが変化するゲームは昔からそれなりにあった気がするが、すぐに名前が出てこない。最近だと『UNDERTALE』などが有名。

 そんなメタルギアソリッドシリーズは「V」において正真正銘の復讐譚を描くことになる。その仇敵であるスカルフェイスもまた、言語への復讐を目的として動いている。

 しかし直接的にエグ目な暴力を振るうシーンはあまり無かったと記憶している。むしろ寄生虫を始めとしたグロテスクなシーンが多かった。カセットテープの会話のように直接映像で描かれないシーンは結構エグかった。



 どストレートな復讐譚というと思い浮かぶのが『ドラゴンクエスト4』。主人公の勇者は、家族や幼なじみと暮らす村を滅ぼした魔王を倒すため旅に出る。

 しかしストーリー全編を通して見ると復讐をしているという印象はかなり薄い。主人公がいわゆる無口系であり、主人公の心情がプレイヤーの解釈に委ねられているのが大きいだろう。復讐を果たした勇者が満足を得たのか。それとも仲間との絆を通して復讐の虚しさを知り、それでも世界の平和のために魔王を討ったのか。