Amazonプライムビデオで『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を見た。あらかじめトビーマグワイア版3部作とアンドリューガーフィールド版2部作を見た上で。
感想を一言で言うと「カタルシス」。それも単体の映画の枠を超えたカタルシスがあった。その意味でスパイダーマン版の『エンドゲーム』。
ある人がヒーローと呼ばれるのは、本来不可能なことを成し遂げること、すなわち奇跡を起こすこと。その意味でまさにヒーロー映画。
また、困った人を助けるのがヒーローというスタン・リーの言葉を借りれば、続編が出なくて悲しんでいたファンの無念を本作が救ったかたちとなる。
とはいえその感動は映画外の事情ありきであって、そのことを映画としてどう評価すべきかは何とも言えない。少なくともポジティブなメッセージを持った映画だとは思う。
そしてラストのこの上ない寂寥感。
トム・ホランド版スパイダーマンもまた「スパイダーマン」だということをはじめて思い知らされた。
今回、旧作のスパイダーマンをはじめて全作通してしっかり見たわけだけれど、とにかくスパイダーマン、というかピーター・パーカーは実生活においてロクな目に合わない。
才能には恵まれているが運には恵まれない。それがスパイダーマン。
そういう意味でMCU版ピーター・パーカーは今作を経てようやくスパイダーマンらしい展開を迎えたと言える。前作ラストもアレだったけれどどちらかというとクリフハンガーの面が強かったし。
誰にも知られず生きる。それは誰からも尊敬を得られなかったエレクトロのオリジンに似ている。
彼が(多重人格的なグリーンゴブリンを除けば)最も自発的にスパイダーマンに反抗し、強大な敵として立ち塞がったことが、その示唆ではないかと思える。
「大いなる力には大いなる責任が伴う」とはいわゆるノブレスオブリージュ的な意味で捉えやすい言い回しだ。
言い換えれば、「力を得たら誰かを助けるために使え」となる
裏返せば「力を得ても自分のために悪用してはならない」。
その反面教師として、スパイダーマンのヴィランは己のために力を使う(娘の為に悪事を働いたサンドマンは完全なヴィランではなく最終的に和解した)。
「人類の為」などと大義名分を掲げたヴィランもいたが、それも実際はエゴの押し付けでしかなかった。
本作のラストは「大いなる力には大いなる責任が伴う」の前に「たとえ孤独であっても」を付け足した。
態度としては高潔。だが同時にとても難しい態度でもある。
はっきし言ってどのピーターも、いつ闇落ちしてもおかしくない経験をしているし、その象徴としてヴェノムの存在がある。
では力のないものはどうすれば良いのか?
誰もが力を持っている、というメッセージが込められていたのがアニメ「スパイダーバース」だった。
どうもMCU映画全体にそういうメッセージが薄い気がする。
「スパイダーマン2」の電車を止めるシーン。あるいは「アメイジングスパイダーマン」のクレーンを飛ぶシーン。ああいうシークエンスがMCUにあっただろうか。
なんかアベンジャーズとかにはあったような気はしなくもない。記憶が曖昧。