読みやすさだかなんだか知らないが、原稿というものはやはり白地にオレンジ枠。これで決まりだ。
また、全画面とかそういうものにこだわっているようではまだまだ。集中できていない。のだ。のだよ。のだよ。のっほっほ。
自由でいたい、などとホザいている僕だが現実にはどうか。
遊んでばかりいる。「楽な方へ楽な方へ」と流れている。
ええんか?こんなんでええんか?よかぁない。よくないのである。
ではどうすればいいのか?
「しんどい方へしんどい方」へと流れてゆけばよいのである。
そのためにはとりあえず苦行だ、ってんで肉体を酷使、具体的には筋トレ、ランニング、フォークダンス、農耕牧畜、等をしたらよいかというとそうでもない。なぜか。
苦行の目的は、ある事物に対して苦しみを与えることによってその事物を鍛えることだ。
ということは、肉体的苦痛によって鍛えられるのは肉体だけ、精神は脆弱なままであり、体は大人、頭脳は子供、みたいな事になりかねず、それは困る。
困らないためには、精神的苦痛を伴う作業を為さねばならない。それは何か。
例えば、渋谷の雑踏の真っただ中で盆踊りを踊る。盆栽に話しかける様をネット中継する。高尾山で高歌放吟のあげくバケツいっぱいの鰻を頭から被る。みたいなことである。
ポイントは恥。恥をさらすことだと思う。なぜなら僕は恥を最も厭うているような気がするから。
だが気がかりなのは、昔恥ずかしい恥ずかしいと言いふらしつつ、自分の恥をさらし、あげく若くして死んでしまった方がいらっしゃるということだ。
精神的苦痛が必ずしも人を強くするとは限らない。
むしろ苦しみを快感と履き違えることが出来るのが、人間の能力であり、恐ろしい部分でもある。
そのままでは楽な方に流される。かといって、苦痛を浴びても変態性を増すだけ。
どうすればええんや。わしゃいったいどうすればええんや。
と、窓から外に向けて叫んでいたら、UFOにさらわれ、とある惑星で移植民として労働する運びとなりました。今では割とハッピーです。