結婚。改めて考えると、結婚とはなんなのだろう。もうさっぱりわからない。わけがわからないよ!
そもそも僕という人間は、いちいち時間をかけて考えないと、ものごとを理解出来ない傾向を持っている。本当に面倒くさい傾向である。そしてさんざん時間をかけた挙句、最終的に何一つ理解出来ずに終わったりする。だめじゃん。
しかし嘆いていても始まらない。ついうっかり結婚というものを理解してみたくなってしまったのだし、理解するためにはきっと時間がかかる。こうなったらしかたない、おとなしく時間をかけて考えてやろうじゃないか。来いよベネット、銃なんか捨ててかかってこい。結婚なんか怖くねー!!
結婚とは何であるか。なんでもかんでもロマンチックに言わないと気が済まない、自己愛ダダ漏れのバカヤローどもは、「愛を育む営みである」とかそーゆー意味の不分明なワードで本質を見えにくくしてしまう。そういった迷惑行為をやめていただきたい。あと、見えないところで僕の悪口を言うのはやめてください。僕の精神力を消耗させるために、アステカの祭壇を再築しようとするのは即刻やめていただきたい。
などと、ありもしない被害妄想で遊ぶのはやめて、話を戻そう。
結婚とは制度であり、成人した男女間で交わされる契約である。契約制度、つまり約束事である。指切りげんまんの亜種である。
具体的にどういった契約制度かというと、ごくシンプリーに言ってしまえば、動物でいう「つがい」である。我々はつがいですよ、ということを内外に知らしめるために、人間は結婚という名の契約をする。
そんな単純なこともわざわざ約束事、すなわち言葉で確認しなければやってゆかれないのが、人間という生き物の悲しき性なのである。まぁ「事実婚」というものもあるので一概には言い切れないけれども。
そう、結婚とは言葉による契約制度である。制度を利用するということは、その制度を成立せしめる言葉が持つ価値基準を受け入れるということに他ならない。結婚するということは、ある種の価値基準を受け入れることなのだ。なのだ。なのだ。なんで三回言ったんだ?
その価値基準とはなにか。「結婚って良いもんだよね」という価値基準である。うん、当たり前だね。超あたりまえだね。結婚しようとする人は、ほとんど全員、結婚って良いものだと思ってるに決まってるよね。まぁ「親が決めたから」とか「子どもができたから仕方なく」とか言って嫌々結婚する人もいるだろうけど、それは今や少数派であるに違いない。
と、ここまで書いてみたものの、上の段落はちょっと間違ってるような気がする。「結婚する人はほぼ全員、結婚が良いものだと思っている」。これって本当だろうか?世の中には「ただなんとなく、みんながやっているから結婚する」という人も大勢いるのではないだろうか。
うん。ありえる。ことにジャペインというお国柄においては大いにありえる。アリエール漂白剤プラス。今度くだらない洒落を言ったらアルゼンチン式バック・ブリーカーかけるからね。
世界中でこれほどの数の人が結婚しているということは、その中に「ただなんとなく結婚した」人が大勢いてもおかしくない。別に「ただなんとなく結婚する」ことについてどーこー言うつもりはない。僕だって日々生きていて「ただなんとなく」やっていることがいっぱいある。ただなんとなく尻を掻いたりしている。むしろ人生そのものが惰性で成り立っている可能性さえ否定しきれない。
しかし改めて考えてみると、なぜこんなにも多くの人が結婚をするのだろうか。僕が素直に結婚というものを理解出来ないことの原因は、そこにあるのかもしれない。なぜ?なぜなの?一対の男女が出会ったからといって、必ずしも結婚しなければいけないというルール・縛りがあるわけではないはずだ。ないはずだ。なんで二回言ったの?別にカップルで海賊王を目指してもいいし、アルゼンチンタンゴを習いに行っても構わないし、アルゼンチンで一番有名なマラドーナの物真似をマスターするためにとりあえずコスタリカあたりで準備運動をしたって構わないはずなのに。はず〜なのに〜〜〜ららら〜〜〜。なぜ歌った。
あまりにも多くの人が、結婚という制度・価値観を選ぶ。価値観が多様化したと言われるが、全然そんなことはないんじゃないかという気がする。なにか目に見えない圧力のようなものを感じる。それは僕自身の内側から出ている圧力なのかもしれない。
なぜ人は結婚をするのか。もちろんそれぞれのカポーにそれぞれの理由があるのはわかる。いちいち話を聞いていけばちゃんと納得できるに違いない。でも、総体として見ると、これほど多くの人達が結婚を選ぶということが、ちょっと不思議というか不気味というか、なんとも言えない気分になる。結婚というものについて考えるたびに。わかる?僕の言ってること。
そこで思い出したのが、昔偉い人が言っていた「欲望は、他者の欲望である」という訳のわからない言葉である。つまり人間が持つことができる欲望のレパートリーは、全部他人のと同じ物、もしくはその組み合わせであるというような意味だったハズ。つまり完全オリジナルな欲望というものは存在しないわけ。ちょっと考えてみればわかるでしょう。
例えば、なぜメディアが簡単に流行を作れてしまうかというと、とりあえず何度なんども「ハンリュウハンリュウ」言っておけば、そのうちの何人かが「あれ、みんなハンリュウ好きなのかな?だったら私もハンリュウ」と勘違いし、そのうち人から人へハンリュウが伝搬し始め、そのうちメディアが放っておいても勝手にハンリュウハンリュウ言う人が増えていくからだ。もちろんそんなに単純な話ではないけれど。あ、ハンリュウっていうのはあれね、DQ4に出てきた「ミスターハン」流ってことね。
そういった観点からみると、結婚への欲望というものは非常に広範に、かつ強力に人間の心に根づいていると言える。最近では結婚したがる若者が減りつつあるが、まだまだ、少なくともハンリュウよりはずっと流行している。あ、ハンリュウっていうのはあれね、ミニリュウの進化系のことね。そして長いスパンで継続している流行のことを、通常は慣習と呼ぶ。そう、結婚は慣習だ。
なるほど、みんながみんな揃いもそろって結婚するのは、それが慣習だからだ。そういうことか。ってそんなんはじめからわかりきってたことじゃん。そんな当たり前のことに僕は今まで気づかなかったわけだ。なんという愚昧であろうか。なんという無明であろうか。お前なんか目ぇ噛んで往ね。とりあえずそれは後にしよう。
ではでは、その慣習、昔からある慣習に従うのは正しいことなのだろうか。オールオッケーなことなのか。というような疑問が頭をもたげた。
使い古された慣習=使い古された言葉を使うのは、ある意味とても簡単なことだ。しかし簡単であるということは、人の思考を停止させてしまう恐れがある。非常に賢い人間として周囲に知られている人物が、こと結婚に関しては明らかに間違いだとわかりきっている判断をしたりするのはそのためではないかと思う。
しかし、結婚が慣習であること、そのことはあえて前向きに受け入れていったほうがいいんじゃないかなーと、なんとなく思った。今思った。
人は流されやすい生き物だ。周りに流されてなんとなく結婚したりする。でも、何となく結婚しただけで幸せになれるほど世の中アマちゃんではない。多分メイビー。
しかし結婚という契約制度の本来の目的は、その幸福の総和を増やすため、ということになっている。タテマエ上は。
そして、結婚という慣習が、現在まで残っている理由は、そのタテマエが一定程度成立しているからではないかと思う。つまり、結婚はある程度人を幸せにする。もちろん例外を上げればキリはないけれど。
しかし、契約とは言葉の問題だ。言葉の問題は、なぁなぁのなんとなくでは上手く行かない。契約は、それを履行しようという「はからい」がなければ成立しないものだ。原理原則的には。お、なんかフツーのこと言ってね?おれフツーのこと言ってね?
逆に言えば、ちゃんと結婚を維持・キープオンしようというはからいがあれば、結婚はちゃんと幸福の総和の増加に寄与してくれるんじゃなかろうか。
だからつまり何が言いたいかというと、結婚とは、慣習であると同時に契約である。欲望であると同時に言葉である。時に互いに矛盾する要素を内包している。それらがフクザツにからみ合ってゴチャゴチャになってわけがわからなくなってしまう時もあるだろう。僕なんかする予定もないのにさっぱりわからなくなってしまっている。
ただひとつだけ確かなことは、慣習も契約も欲望も言葉も、結局は人間がつくりだしたものであるということ、人造物であるということ。結婚は決して、人間の「本来的」で「自然な」行為ではないということ、そこらへんを押さえておけば、大きな間違いは犯さないんじゃないかな、という気がする。なんとなく、ただなんとなくそう思う。
その上で、ちゃんと結婚というモノをキープオンしようというはからいを継続し続ける限り、「結婚とは良いもの」でありうるんじゃないか。
まぁいずれにせよ僕はすべての人の、全人類の幸福を願っていますから。ええ。おまえ何様だよ。